「親のせい」は親と子供から思考と選択肢を奪う

東直己原作の映画『探偵はBARにいる』は今や大河ドラマの真田丸などにも出る大泉洋さんが主演で、大変面白い映画だ。

この映画で(原作は不勉強が祟って未読)、親の手に余った少年がいわゆる右翼系の団体に預けられて、最終的には痛快な展開があって救われる展開があるのだが、詳しく書くとネタバレになってしまうので自重する。

この映画の描写は結構生々しく、特に親が「もうあそこに預ける以外に他に手段が無かった」とすがるような想いで預けており、製作者側の注意深さに感心した。

というのも、不登校やいわゆる不良とされる子供たちの選択肢は昔から大して増えてない。中卒者として世に出るか、一念発起して学校に戻るか(高校受験や大学受験など)。その他はあまり一々書きたくないものもある。

私は高校受験を機に不登校から脱したのだが、義務教育時代、私の親は比較的恵まれていた。地域の目が優しかったからだ。「そのうち通えるようになるよ」とあくまで学校を基本にしながらも長い目で見てくれる人や「子供は子供だから」と学校以外の選択肢も受け入れることの重要さをいう人もいた。そんな素晴らしい人たちがいたのを、よく覚えている。

一方で、いわゆる教育論者はひどい人が何人かいた。当時小学生の私が親に連れて行かれた先で「こういう子供は親が悪い。育てかたが悪い」といきなり両断してきて、私までびっくりした。その後に帰宅してから、母が悔し涙を流していたのを見て「私のせいなのか」と死にたくなったのもよく覚えている。

ここまでひどい人物は想像力が追いつかないかもしれないので置いておくが、子供の問題を「親のせい」で片付けたくなってしまう人らは多い。ときには家族の間でさえそういったやりとりが起こる。「子供が悪い」とは言い難いものだから、「親のせい、育てかたのせい」ともっともらしいことを言って、親を周囲から孤立させていく。

なおこの記事では便宜上『親』と表記しているが、保護者や教育担当者と書く方がより正確な場面もある。

80年代、90年代のメディアもこれに加担していて、子供が問題を起こすとや『親が悪い』『こんな風にした学校が悪い』と全てを自分らから切り離すのを好んでやっていた。こうしたメディアで取り上げられる自称教育論者たちの言も大半がこうであった。後にそうでない人たちのことも知るが、大半は教師向けの講演など手堅いことをしている方ばかりで、メディアには出てこなかった。

「親のせい」という言説の行き着く先は、子供を守り育てる親の誇りを傷付け、子供を傷付け、どうしようもなくなった子供を施設に預けるか放置するという、ほとんど捨て子と変わらない末路だ。選択肢を与えているどころか、奪っている。第三者の公的な機関による手続きを慎重に踏んだ場合は除くが、それも透明性と、それを真剣に考える大人が必要なことに変わりはない。

私は浅学の身な上に、専門的な知見を代表できるような仕事もしていない。その上で、「親のせい」という考え方をやめて、「私に手伝えることは何か無いのか」と、したくてもできないことを伸ばすやり方、考え方へと、少しでもシフトしていって欲しいと、心から願う。

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