都条例は数の論理?

東京都青少年健全育成条例について。年末に大袈裟なこと前提で書いた記事がこの話題をblogで取り上げた最後になっていたので、それもどうかと思い、近頃の出来事などで形になってきた考えについてつらつらと書いておきます。

浦嶋嶺至氏については、猪瀬副都知事とのことで、興味のある方には今更説明することもありません。私個人として今回のいわゆる「雪かき」についてどう思ってるかといえば「抗議活動の一環としてやったのなら、実際に会談が行われなくても、またその会談の内容に関わらず、一個人の行動として卑下されるような性質のものではない」程度のものです。

どうしてそう淡泊な感想かといえば、ずっと前からある有害図書の問題(浦嶋氏などはこの頃から問題意識を持っている世代ですね)など含めて、明確な方針とそれによる取材の選別が、個人の範囲でも重要な段階になっている、ということです。

今回の改正都条例の話が出た頃からある話で「オタクも数の論理で勝負しなくてはならない(政治的な考え方を持たなければならない)」というのがあります。まあ、これは当時の機運などを考えれば別におかしくはなかったですし、一口にまとめられていても志向する所は違っているでしょう。ただ、未だにこの話が何かの拍子に出てくると、首を傾げざるをえない。

というのも、表現の自由や知る権利についての慎重な判断について、条例を施行する側(都に限りません)は頻繁に岐阜県の青少年条例についての最高裁判例を取り上げていて、それにのっとるならば、運用にさえ問題が起きなければ条例の改正には問題が無い、とする言い分は、破綻しません。科学的根拠についても先の判例は触れていますから、興味のある方はご自分で調べてください。

ではその一事でもって私が「条例改正は正しかった」という認識をしているかといえば、そうでないことは他の記事を読んでいただければわかっていただけると思います。私が気にしているのは、「数の論理」といういかにも糾合的な言い方で誤魔化されている、表現や知る権利に対するアプローチの欠如についてなんですね。

私が作家の方々の表現の自由に対する声明以外に特に賛同しないのは、それだけの根拠を見出せるだけの知識や経験が私に無いからですが、都側が貫いたようなロジックの使い勝手の良さと危険性を、出版社と作家の関係や作業現場などの現状以外から認識する機会がどれだけ広く一般にあるんだろうな、という疑問もあるからです。出版各社が都側の動きに反発したのは、ああする以外に方法が無かったからというのもあるでしょう。

作家としての立場以外に、青少年自身の権利の問題からアプローチしている方もいますし、親として子供の将来を考える上で条例の有効性について考える人もいます。都側の姿勢や説明責任などについて論じるのも良いと思いますが、「都側の判断を覆せないでいるのはオタクの力が弱いから、稚拙だから」というのは、どうも都側と同じ欺瞞が潜んでいるように感じられて、それで慎重にならざるをえないのです。

最初に浦嶋氏について取り上げさせていただいたのでこの文章もそれに関連したことでまとめたいと思います。浦嶋氏のような方の動きが(少なくとも興味のある人には)簡単に届くようになった時代の流れについて、肯定的に捉える一方で、様々な観点から、疑問や不安を口にしていく必要があり、またそれが交流となっていく努力を欠かさないようにしたいものです。

これからも何かにつけてこうした文書を書くとは思いますし、自身の欺瞞や不勉強な点については改める点や指摘していただくこともあるかと思います。

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