都条例を基点に今年を振り返ってみよう

今年は色んな方の努力のおかげで、私の働き以上に楽しく過ごせました。ありがたいことです。

さてこれから、今年を振り返ろう、というわけですが、どうやったって東京都の青少年健全育成条例(今年12月に改正案可決。来年7月施行)について触れないといけません。しかし、私はもう前に所信めいた拙文を書かせていただいたので、その焼き増しをしたって、これが見識のある方ならともかく、私個人ですから、つまらないでしょう。

ですから、条例や関連した出来事だけではなくて、それに触れて抱いた雑感などを列挙して、これから自分の生活が、社会が、日本が、世界がどうなるか、なんてことを、大袈裟に考えてみます。しかしまあ、大袈裟はともかくいい加減にダラダラやっても、それもまたつまりませんから、項目別に分けたいと思います。

では、家庭、同人即売会といった具合で大別して書いていきたいと思います。

家庭
「子供にはいったい何を与えたらいいのか」というのは恐らくあらゆる親御さん、保護者、教育者他の命題なんでしょうが、基本、子供は好き勝手に得たいものは得ますので、何を与えるにしたって結局は大人の考えに過ぎません。とりあえず親御さんの話に限定しましょうか。

教育方針があるのは良いと思うんですよ。「うちの子には勉強をしっかりしてもらいたい」なんて漠然としたものから「プロゴルファーに育てる!」とかでも良いと思います。「大きくなったら一緒にバイクいじりたい」とかも格好いいじゃないですか。そういう目標に向かって親が努力してくれたら、そら子供だって嬉しいです。もちろん「勝手に決められてうざったいなあ」とは思いますし、それが祟って変なことしたりもしますが、それは親への感謝とは別のものですから。

ただ、どんな環境下でも犯罪に手を染めてしまう場合はあります。強姦や覚せい剤、殺人なんてものでなくても、自転車で人を撥ねたりもします。花火やってたらボヤ出しちゃったりもします。

それらに至った、世の中に溢れているあらゆるもの、法の不備や親の不注意だったり、暴力、いじめ、覚せい剤だったり、あるいは漫画、新聞だったりの影響は個々人で違っていて、その因果関係を証明するために昔から警察の方々は努力してきたわけです。その勤勉さと使命感は素直に凄いと思います。ちなみにここで警察を例えに出したのは、司法の代表として市民に最も近しいからで、都条例の改正案が警察官僚によって作成されたこととはあまり関係がありませんので、そういうのに敏感な方は気を付けてください。

さて、一方では色んな子供の育て方があり、一方で社会的な取り組みがあり、それはそれで良いと思うんですね。で、世の中には少年法なんてものがあり、これも色々と言われてはいますけど、「子供のために」という部分は少年法の在り方に賛成か反対かに問わず、共通していると思います。まあ、この少年法の問題についても社会的にはなあなあに済ませてきた感があり、そういったことが国や自治体の認識に影響しているようにも思います。

今回の都条例の改正、青少年の犯罪を防ぐために有害な図書を指定し、規制しよう、という目的が含まれているのですが、そもそもそうした包括的な判断は、最高裁によって「規制やむなし」の判決が出た岐阜県青少年保護条例事件ですら「『青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性』が無ければ憲法違反になる」 (2011/1/12追記。重要な部分で誤解が生じかねないため、一番下に補足意見の該当部分を転載してあります。この点についての修正によって本文の主旨が変わるものではありませんが、ご注意ください。)と裁判官が注意しています。こうした注意が出るのも、単に憲法違反を恐れるからではなく、真に子供のためになることとはなんぞや、という問いがあるからこその慎重さでしょう。

こうした慎重さによる話し合いを放棄して治安対策優先で改正案をぶっちゃったものだから、これだけ大騒ぎになってしまいました。一方で、昔から有害図書の問題はあり、これにしたってなあなあで済ませられてきました。

私が何を言いたいかというと、核家族化の後、少子高齢化社会がやってきて、これからどんどんと家族の役割が社会に分担されなければならない中で、どれだけ真剣に「子供のため」ってことを考えてきたか、ということですね。「子供の見えない場所で売れば良い」「いやそもそもそんなものは世の中から無くなるべきだ」「子供への暴力を撮影したものもある」「それは漫画とかとは関係ない」と、喧喧囂囂、どれも言い分はあるにせよ、「勝手に決められてうざったいなあ」と思う子供たちのことを、考えられているのだろうか、と。

責任をもって子供のことを勝手に決め、そして「うざってえ」と攻撃してきた子供たちのことを受け止められる大人が、どれだけいるのか。これから治安的な面、国際的な協調などで、世の中はどんどんと動きます。それはときに破壊でありますし、再生でもありますが、そうした中でせめて少しでも将来像を子供と共有できる大人を増やしていければ、と思わずにいられません。

同人即売会
本来この項目は「出版」や「コンテンツ産業」でないといけないと思うのですが、少し耳を澄ませば経験豊かな方々のお話が聞こえてくるわけで、またそうした日々作業の中で感じたことから喋ることこそが大事だとも思います。そうしたわけで、今現在、私自身が接する機会の多い即売会に限定したいと思います。

私が今更言うことでもなく、同人というのは作家とファンの垣根があってないようなもので、それこそが最大の魅力でした。一方でショップなどでも同人誌を扱い、印刷所で本を刷り、通販などでも流通するようになった結果、疑似的に商業出版と似たような部分が出てきました。私はこの流れ自体には特に問題は無いと思いますし、そうした流れは無理に止められるものでもないと思います。即売会に来る方々の顔ぶれの変化と、それに対する世の中の反応こそが、これからの課題でしょう。

活字離れ、なんていうのがそれこそ東京都からも叫ばれる中、漫画や小説はコンテンツの要でして、即売会でもこれは同じです(忘れられがちですが、即売会でも小説は頒布しています。同人ゲームでも会話だけでなく物語自体を活字で表現しているものが多々あります)。

一方では活字離れが取沙汰され、一方では東京都の条例に不安を覚えるほど熱心にコンテンツに触れている人達がいる。そうした格差を即売会が埋められる、とまでは言いませんが、文化の違い以上に人の興味を引くものは無いように思います。

あるコンテンツに触れて育った層と、そうでない層。どちらが優秀だ、劣等だ、ということではなくて、何を基軸にして物を考え、生きているのか。そういったことを周囲に発信し合えるような関係になれるきっかけがあれば、と即売会に足を運ぶ度に思います。

例えば図書館などで子供に絵本を聞かせたりする活動。これも一見何気ない活動のようで、保護者は保護者で、子供は子供で、感じるところが違うことが、如実にわかりますし、そうしたことを発信している方は多くいます。新聞などでそうした方々のお話を読まれた方もいらっしゃると思います。

そうしたポジティブな面を伸ばせればと思うのですが、急ぎ過ぎても上手くいかないでしょう。どういう場で若い世代が感性を磨くのか、浮かれ過ぎずにきちんと見ていきたいものです。

まとめ
文中、少子高齢化の話が出ました。私はこれについてはポジティブに捉え、そうした方向に持っていく努力を惜しんではならないと思います。大袈裟な話をすれば、今後、平和憲法をどう萌芽させていくか、結果としてどういう憲法が望まれるのか、それに対応し得る人物像とは、そうした課題を見越した上で、個々の問題だけに熱中するようなことを避けなければなりません。

はっきり言いますと、世代間闘争などしている余裕はありません。噴出する問題の中でセーフティネットについても取り沙汰されます。どこでどういう方々の力を借りなければならないか、借りない方が良いのか、話し合いの機会を喪失するような無謀さは求められていません。

自分自身としてではなく、自分にとってかけがえのない友として、表現の自由を見る。すけべえな奴もいれば、かっちこちの奴もいる。そうした連中と付き合う余裕を持ち続けた上で、表現の問題を見ていきたい。

以上を拙文の結びとさせていただきます。ここまで読んでいただけたなら、幸いです。みなさん、よいお年を。


(2011/1/12追記。以下、上告審判決より転載)
岐阜県青少年保護育成条例違反被告事件
最高裁判所 昭和62年(あ)第1462号
平成元年9月19日 第3小法廷判決



裁判官伊藤正己の補足意見(一部)
青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれない。しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要制が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
(転載ここまで)


一部を見てもわかる通り、補足意見は全体としては条例の合憲性を青少年への悪影響を排除する目的の特殊性から認めつつ、表現の自由を制限することの重大性を喚起する内容です。ですから、私が先の本文中で書いたように強烈な批判意見としての傾向はありません。後から読み直して、この点についてはきちんと修正しておく必要があると思い、今回、以上を転載しました。

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