メモ 魏書十四 董昭伝

むじん書院より引用(改行及びスペース付加)
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei14-3

袁紹一門の袁春卿が魏郡太守として城中にあり、その父袁元長は揚州にあったため、太祖は人をやって彼を迎え入れた。董昭は袁春卿に手紙を送って言った。

「思いまするに、孝子は利益のため親に背かず、仁者は私欲のため君を忘れず、志士は幸運を望んで乱を願わず、智者は自己を危険に陥れてまで邪道を行わない、と聞き及んでおります。足下の大君が、往昔、内地の災難を避けて南方は百越の地に遊ばれたのは、骨肉を疎まれたのではなく、かの呉会を願われたからでした。智者の深い見識があって初めて、そのように決断できるのでしょう。その志を貫いたことと高潔さによって仲間と離ればなれになったことを、曹公(曹操)は憐れみ、それゆえ格別に使者を江東へ遣され、迎える者もあれば送る者もあって、今にでも到着しそうな様子です。たとい足下が偏平の地(平和な地方)に立ち、徳義の主に仕え、泰山の固きに拠り、喬松(長寿の仙人王子喬・赤松子)の友に加わろうとも、道義的に言えば、それでもそちらに背いてこちらへ向かい、民草を捨てて父親にすがるものでしょう。しかも、邾の儀父が初めて隠公と会盟したとき、魯の人々はそれを歓迎しつつも爵位を記さなかったことがありますが、さすれば王がまだ任命していなければ、爵位の尊貴さは完成しないというのが春秋の道義なのです。ましてや、足下が今日(身を)託しておられるのは危険の国、受けているのは虚偽の命なのですから、なおさらのことでしょう? もし不逞の輩と付き合って、自分の父を思いやらないのであれば、孝と言うことはできませんし、祖先のおわします本朝を忘れて、未だ正式でない奸職に就かれるのであれば、忠と言うことはむつかしく、忠・孝ともにお捨てになるのであれば、智とは言い難いのです。それに足下は昔日、曹公から鄭重に招聘されました。そもそも一族とは親しんで生みの親を疎んじ、仮住まいを内として王室を外とし、不正な禄をもらって知己の恩に背き、幸福を遠ざけて危険を近づけ、高らかな道義を棄てて大きな恥辱を拾われる。なんと勿体ないことではありませんか! もし翻然と態度を改め、帝を奉じて父を養い、我が身を曹公に委ねられますれば、忠孝は失われず、栄誉は高められましょう。深く計算を徹底し、速やかに良策を決行してください。」

鄴が平定されると、董昭を諫議大夫とした。のちに袁尚が烏丸の蹋頓に身を寄せたので、太祖はこれを征伐しようとしたが、軍糧の輸送が困難であろうと懸念された。平虜・泉州の二つの運河を掘って海へ引き、運送を通じさせたのは董昭が建議したものである。太祖は上表して(董昭を)千秋亭侯に封じ、転任して司空軍祭酒を拝命した。

以上より更に抜粋
孝子は利益のため親に背かず、仁者は私欲のため君を忘れず、志士は幸運を望んで乱を願わず、智者は自己を危険に陥れてまで邪道を行わない

原文
孝者不背親以要利 仁者不忘君以徇私 志士不探亂以徼幸 智者不詭道以自危

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